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「あの男、すごかったですね」
帰りの馬車に乗り込んだ僕に、カルロ君が話しかけてきた。いつもなら少しは愛想よく答える僕だが、今は口を開くととげのある言葉しか出てきそうもない。そうなるとまずいので何も言わないでいたら、カルロ君が続けて喋ってきた。
「 “僕のタクトから目を離さない!”ですよ?あのほのぼの楽団にそこまでやる人、今までいなかったですよね〜ははは。…でも、音が変わりましたよ。みんなの気持ちが集中したっていうんですかね?今までにない、盛り上がりのあるアイネクライネでした。きいてて楽しかった!」
「…そう。」
それきり黙り込んだ僕に、さすがのカルロ君も口をつぐんだ。
馬車は黙ったまま、暗闇の中を進んで行く。
僕の住んでいるのは、外見は普通の家(だいぶ大きいけれど)ではあるが、住んでいるのは僕と、エミリオ先生、奥様の三人。カルロ君と、カールさん、フランツさんの三人のガード達は、交代でここに泊まり込む。後は掃除や洗濯、庭の仕事をする馴染みのおじさん、おばさん。郵便物を配達に来るお兄さん。(僕には顔を見せない警備の人がいる、とはカルロ君からきいた。)それが僕がここで出会う全ての「人」だ。…いや、まだいた。定期的に一日おきに来る西の国の外交大臣の秘書。それから、時々やってくる大臣とその客。どちらにしろ、「人」とあまり会わないことが僕の「感情」にとって良いことだと秘書は言う。だから、僕がああいう形で人と会うことは、めったにないことだ。多分、今夜のうちにカルロ君を通じて国の方には報告がいくだろう。
馬車に揺られながら目を閉じる。ちょっと疲れた。
「君だけはやれていましたね」
演奏を終えた後、背の高い男はポーカーフェイスで言った。僕を見下ろす位置で。
「…どうも」
この感情をどうすればいいのかわからないまま、僕は答えた。この男のタクトで弾いた時の、爽快感、安心感、心地よさ。追い求めていたものが目の前に現れた感じ。心拍数があがる。それと共に感じるイライラする感じ、落ち着かない気持ち。その気持ちはちくしょう、という言葉がぴったりくる。ああ…僕は悔しかったのか?何に対して?
「はじめからついて来られる人はめったにいません。ではまた。」
それが、僕らがこの夜に交わした会話の全て。
その数少ない会話を反芻しながら、彼の表情や姿を思い浮かべる。くっきりとした顔だち。あまり表情を伺うことができなかったポーカーフェイス。無駄な動きのないタクトさばき。引き出される音楽、高揚する心臓。ぐるぐる巡る、今日の出来事。
「着きましたよ」
目を開く。ちょっとうとうとしていたらしい。
「ありがとう」
玄関ポーチで馬車を降り、ドアを入る。この家の庭は広く、裏は山の斜面に続いていて、門から建物までちょっと距離がある。大きなお屋敷といった風貌の家だ。僕のニ階の部屋の他は、書斎と物置き。一階にエミリオ先生御一家とガードの人たちが使う部屋。それぞれの階にバストイレ水回りの設備があり、キッチンと食堂と居間は一階。それぞれの窓にはそれとは気付かない、草の茎や花をモチーフとした優美なデザインの鉄格子と鍵付き。
「悠季さん、おかえりなさい。」
「お帰りユーキ」
「ただいま帰りました。先生もお帰りなさい。」
「お待ちしていました」
先生といっしょに客間のソファにいた人物は大臣の秘書だ。コバヤカワと言う。まだ若いその風貌は、ぱっと見にはハンサムに見えるが、いつも無表情の笑みを張り付かせている。
「会議でいっしょになりまして、無理を言って寄らせて頂きました。」
「…こんばんは」
この人といると息苦しい。
「顔色がすぐれませんが、体調がよろしくないので?」
「少々疲れただけです。」
「ユーキ、うがい手洗いな」
先生に言われて、ほっとした気持ちでソファから離れる。いっしょに、奥様が空のトレーを持ってついてきた。
「悠季さん」
「はい」
いつもよりもちょっと緊張した奥様の表情が、廊下の薄明かりの中にあった。奥様はそのまま僕を追いこすようにして、耳もとに口を寄せてささやいた。
「いいこと?今日の気持ちは決して表にださないで。」
「…はい」
それはいつもやっていることで。今、ここで言われたと言うことは、これからのことで何かあるってことか…?
部屋に戻ってバイオリンを置き、うがい手洗いをしてから下に戻った。先生の右隣にコバヤカワ。その目の前、一人掛けのソファに腰をおろす。
「指揮者がきたそうですね。」
コバヤカワが紅茶のカップを手に聞いてきた。カルロ君はもう退出しているようだ。
「ええ」
「どうでした?」
「普通に弾けたと思います。」
「カルロは大変楽しかったと。」
「ええ、本格的な音楽家のようです。」
「君のバイオリンの腕もたいしたものなのでしょう?」
「気晴らしに弾いているに過ぎません。」
粘り気のある会話。奥様が気をつけろといっていたのはこれか?
「ところで」
紅茶のカップを置きながらコバヤカワが顔をあげた。
「ノウス・パブリカのことを聞きましたか。」
「ええ、ラジオで。」
「彼等の中に、君のお父上を殺害した者がいるそうです。」
足を組み換え、コバヤカワが続ける。
「これをお伝えしたのは、間違ってもその組織と接触しないようにとの大臣の思いからです。ニュースにはのりません。ですが、大臣は君の身柄が彼等の手に落ちるのを大変心配しておいでです。君があの組織の手に落ちれば、必ず君の命を奪うでしょう。
…お伝えしにくいことですが、父上は我が国と交渉しようとしてノウスの領主の命に背き、裏切り者としてノウス側の人間に殺害されたのです。」